太宰府歴史人物 大観⑧ 太宰府と大江匡房

太宰府と大江匡房

大江匡房は、文章道の大江氏の嫡流に生まれた。父は、大学頭成衛、母は漢文学者の宮内大輔橘孝親の女で、曾祖母に赤染衛門かいる。幼少の頃より学才を頭し、二六歳で東宮学士に任じてより、後三条・白河・堀河天皇三代の侍読を務めた。

承徳二年(1098)、大宰権師として赴任。大宰府に入った匡房は、まずもって菅公廟、安楽寺(大宰府天満宮)に参詣し、終生、自らが文化の神として尊崇してやまなかった菅公の墓前に額ずいた。菅原家と大江家は、ともに先祖を天穂日命とする同族で、学問の家柄であった。そのこともあって匡房は、菅公の学問に対する情熱と精神を自らのものとすることを願っていたのである。その頃、匡房は夢で、菅公と出会う。
夢中の菅公は、昔、配所の生活を送られた榎寺への神幸を望まれていたという。
康和三年(1101)、天満宮の最大の祭りである「神幸式大祭」はこうして始まった。

同五年十一月十六日、遣唐副使大伴古麻呂は鑑真一行をひそかに自分の船に乗船させ、蘇州を発した。そして、ついに沖縄を経て、鹿児島の防津に到着した。
その自ら学識とともに絵師、書家、仏師等を伴って、十二月二十六日、太宰府に着いた。
観世音寺さらに、次田の湯(二日市温泉)でその疲れをいやし、奈良へのぼる。
翌年、東大寺へ入った鑑真に勅使吉備真備は、「今後、授戒伝津はもっぱら大和尚に任ず」との孝謙天皇の意向を伝えた。
聖武上皇をはじめとする多くの僧尼に授戒し、東大寺大仏殿西方に常設の戒壇院を造り
さらに唐招堤寺も建立した。続いて下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に戒壇院を設け
天下三戒壇とした。日本仏教の基礎を確立した人である。